寺田寅彦

天災と国防 昭和9(1934)年11月

文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増す。

 

文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心が生じた。そうして,重力に逆らい,風圧力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の猛威を封じ込めたつもりになっていると,どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように,自然が暴れ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当でないはずである。災害の運動エネルギーとなべき位置エネルギーを蓄積させ,いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。

 もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。それは人間の団体,なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し,その内部機構の分化が著しく進展して来たために,その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり,時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。

 

 分化が進むに従って個人が社会を作り,職業の分化が起こってくると事情は未開時代と全然変わってくる。天災による個人の損害はもはやその個人だけの迷惑では済まなくなってくる。村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。

 

 送電線にしても工学者の計算によって相当な風圧を考慮して若干の安全係数をかけて設計してあるはずであるが,変化の激しい風圧を静力学的に考え,しかもロビンソン風速計で測った平均風速だけを目安にして勘定したりするようなアカデミックな方法によって作ったものでは,弛張(しちょう,ゆるんだり,張ったりすること)の激しい風の息のため周期的衝撃に堪えないのはむしろ当然のことであろう。

 

 文明が進むほど天災による損害の程度は累進する傾向があるという事実を十分に自覚して,そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに,それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は,畢竟(ひっきょう,つまるところ,結局,要するに)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで,ちょうど人間が前車の転覆を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

 

 昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に耐えたような場所のみ集落を保存し,時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守してきた。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。大震災後横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき,かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに,田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見たときにつくづくそういうことを考えさせられたのであったが,今度の関西の風害でも,古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに,時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。やはり文明の力を買いかぶって自然を侮りすぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。

 

工事に関係する技術者がわが国特有の気象に関する深い知識を欠き,通り一辺の西洋直伝の風圧計算のみをたよりにしたためもあるのではないかと想像される。これについてははなはだ僭越ながらこの際一般工学者の謙虚な反省を促したいと思う次第である。

 

旧村落は「自然淘汰」という時の試練に堪えた場所に「適者」として「生存」しているのに反して,停車場という位置は気象的条件などということは全然無視して官僚的政治的経済的な立場からのみ割り出して決定されているためではないかと思われるからである。

 

天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に,いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒も何もなしに突然襲来するのである。それだか国家を脅かす敵としてはこれほど恐ろしい敵はないはずである。

 

陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け,日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然でないかと思われる。

 

天災の起こった時に始めて大急ぎで愛国心を発揮するのも結構であるが,昆虫や鳥獣でない20世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少し違った。もう少し合理的な洋式があってしかるべきと思う次第である。

 

 

 

 

災難雑考 昭和10(1935)年7月

平生地震の研究に関係している人間の目から見ると,日本の国土全体が 一つの吊り橋の上にかかっているようなもので,しかも,その吊り橋の鋼索が明日にも断たれるかもしれないというかなり可能性を前に控えているような気がしないわけには行かない。

 

「地震の現象」と「地震による災害」とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても「災害」のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性があるのである。

 

 たとえばある工学者がある構造物を設計したのがその設計に若干の欠陥があってそれが倒壊し,そのために人が大勢死傷したとする。そうした場合に,その設計者が引責辞職してしまうか切腹して死んでしまえば,それで責めをふさいだというのはどうもそうではないかと思われる。その設計の詳細をいちばんよく知っているはずの設計者自身が主任になって倒壊の原因と経過を徹底的に調べ上げて,そうしてその失敗を踏み台にして徹底的に安全なものを造り上げるのが,むしろほんとうに責めを負うゆえんではないかと言う気がするのである。

 

 理屈抜きにして古今東西を通じる歴史という歴史がほとんどあらわる災難の歴史であるという事実から見て,今後少なくとも二千年や三千年は昔からあらゆる災難を根気よく繰り返すものとみてもたいした間違いはないと思われる。少なくともそれが一つの科学的宿命観でありうるわけである。

 もしもこのように災難の普遍性恒久生が事実であり天然の法則であるとすると,われわれは「災難の進化論的意義」といった問題に行き当たらないわけなーには行かなくなる。平たく言えば,われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育ってきたものであって,ちょうど野菜や鳥獣魚肉を食って育ってきたと同じように災難を食って生き残ってきた種族であって,野菜や肉類がなくなれば死滅しなければならないように,災難がなくなったらたちまち「災難飢餓」のために死滅する運命に置かれているのではないかという変わった心配も起こし得られるのではないか。

 古いシナ人の言葉で「艱難汝を玉にす」(かんなんなんじをぎょくにす)といったような言いぐさがあったようであるが,これは進化論以前のものである。植物でも少しいじめないと花実をつけないものが多いし,草履虫パラメキウムなどでもあまり天下泰平だと分裂生殖が終息して死滅するが,汽車にでも乗せて少しゆさぶってやると復活する。このように,虐待は繁盛のホルモン,災難は生命の醸母であるとすれば,地震も結構,台風も歓迎,戦争も悪疫も礼賛に値するのかも知れない。

 

進化論的災難観,優生学的災難侖

災難を予知したり,あるいは災難が来てもいいように防備のできているような種類の人間だけが災難を生き残り,そういう「ノア」の子孫だけが繁殖すれば知恵の動物としての人間の品質はいやでもだんだん高まっていく一方であろう。こういう意味で災難は優良種を選択するメンタルテストであるかも知れない。

 そうだとすると逆に災難をなくすればなくするほど人間の頭の働きは平均して鈍いほうに移っていく勘定である。

 

 

インターネッより http://pub.ne.jp/lot49/?entry_id=3741174

寺田寅彦『天災と国防 』講談社学術文庫(2011年)は、『寺田寅彦全集』、『寺田寅彦随筆集』(いずれも岩波書店)の中から災害に関する随筆を集めたものだ。東日本大震災の直後に、しかも解説者は東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の委員長に就任した畑村洋太郎氏に依頼したというのは、編集者の目の着け所が良かったというべきだろう。(ちなみに、畑村先生の解説文は委員長に就任が決まる以前の5月に書かれている。)
 「天災は忘れた頃にやってくる」は寺田寅彦の言葉だといわれているが、実は寺田寅彦の著作にはそのものずばりの言葉は無く、弟子の中谷宇吉郎が「天災は忘れた頃来る」(昭和30年8月)という題の随筆を書いており、それが寺田の言葉として広まったというのが実態のようだ。(レファレンス協同データベース埼玉県立久喜図書館(1997年6月9日)回答より)その中谷宇吉郎が「天災は忘れた頃来る」という題を得たと思われる随筆が、この本のタイトルになっている「天災と国防」である。

文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。 ―「天災と国防」より

それらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまったということに帰すべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない自然科学的な事実に基づくものであろう。 ―「函館の大火について」より
畑村先生の解説は、簡にして要を得ていて明快だ。畑村先生によれば、「寺田の随筆のおもしろさは、正確なものの見方に起因」するという。「どんな事柄や現象を見るときも同じだが、対象の正しいモデルを自分の中につくるときに欠かせない必須の視点」があり、それは「構成要素」「マイクロメカニズム」「マクロメカニズム」「全体像」「定量化」「時間軸」という六つの視点である。寺田が本当にこの六つの視点を意識していたかは定かではないが、「少なくとも文章の端々からは、この視点を持って観察を行っていたと感じられる」というのはうなずける。
地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁にわが国のように激甚な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい。わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。 ―「天災と国防」より

もしもこのように災難の普遍性恒久性が事実であり天然の方則であるとすると、われわれは「災難の進化論的意義」といったような問題に行き当たらないわけには行かなくなる。平たく言えば、われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育って来たものであって、(中略)日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。 ―「災難雑考」より
東日本大震災を経験した今読めば、「なるほどそうしておけば良かった」と思うが、この本はむしろ今後長く防災教育のテキストとして、あらゆる世代の人々に対して繰り返し用いられることで価値が増してゆくものであろう。
 また、寺田は「津波と人間」の追記で、1896年(明治29)の三陸大津波で建てた災害記念碑が二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めない、といった例や、記念碑を建てた旧道が淋れてしまって人の目につかなくなってしまった例が紹介しているが、今回の震災でも畑村先生が以前テレビで紹介していた、「ここより下に家を建てるな」という碑の教訓が十分活かされていなかった。村落ごと押し流され、尊い犠牲を払いながら、からくも生き残った人が子々孫々に伝え残そうとした物が活かされないというのは、人間の忘れっぽさ、ご都合主義を織り込んだ上で、防災の教育システムを構築する必要があるということだろう。
百年に一回あるかなしの非常の場合に備えるために、特別の大きな施設を平時に用意するという事が、寿命の短い個人や為政者にとって無意味だという人があらば、それはまた全く別の問題になる。そしてこれは実に容易ならぬ問題である。この問題に対する国民や為政家の態度はまたその国家の将来を決定するすべての重大なる問題に対するその態度を覗わしむる目標である。 ―「地震雑感」より

http://pub.ne.jp/lot49/?entry_id=3741174